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お経は、お釈迦様(釈尊)が弟子や一般信者に「教え」を説かれた ことを、後世の仏弟子たちがまとめ記録した「釈尊の言行録」が基本です。
つまり釈尊は教えを説かれましたが、経典を書いたわけではありません。釈尊の教えが後世に正しく伝わるように、釈尊の死後、直弟子たちが、釈尊から直接聞いた仏さまの教えを編集したものです。
ですからお経の「出だし」は「如是我聞(にょぜがもん)」、つまり「私は、かくの如く聞けり」で始まるのが原則です。
釈尊は、「人間(私)、どう生きるべきか」を80歳で亡くなる直前まで説かれ、生涯を終えられ涅槃に還られました。 ですから、お経は「亡き人が《いいところ》にゆけますように」ということではありません。仏さまの教えを唱えて感謝することです。
私たちは日々、「忙しい、忙しい!」と追われるような生活を送っています。世間の動きが急なために、私たちもそんな気になるからでしょうか。
しかし日々の生活は、便利になり時間的ゆとりは確実にあるはずです。ご飯を炊くにも、洗濯するにも、掃除をするにも便利な電化製品があります。町に出るにも車があり、食べ物も手間暇かけなくても、できあがった食品を多用しています。それなのにあわただしい日々を送っています。どう生きるかを考えることもなく。
道元さんのことばは、そんな私たちの生活は「ほんとうにそれでいいの?」と呼び掛けている気がします。一度切りしかない人生を「生きてよかった」となるように「生きる道」を求めたいものです。
お釈迦様は、「人生は苦なり」と説かれました。
たしかにうれしいこともありますが、そう長くは続きません。人生の大半は、苦しいこと、悲しいことが多いと思います。
それは「思い通りいかない」ことが多いからです。「思い通りいかない」のが多いのは、私たちが何でもかんでも「思い通りにしよう」という気持が強く、多いからです。ですから、思い通りになりうれしいときは「自慢する」のではなく、「お陰様で」と、目に見えないところで助けられていることを喜び、思い通りにいかず悲しい時は、人や神仏を恨むのではなく、「身からでた錆(サビ)」と自分を振り返り、我が身の至らなさを顧みることです。そうすることで、うれしい時も、かなしい時も、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と喜べるのです。